北海道の円空仏

   〜「北海道史研究」より〜  阿部たつを(円空学会名誉会員)



 
 「北海道史人名辞典」には、円空のことを「僧侶。美濃国竹が鼻の人、幼より
出家して某寺にあったが、二十三歳の時遁れ出で、富士白山等に籠もって
行を修め、後飛騨の千光寺に寓した。ついで東国を巡って遂に蝦夷地に渡った。
実に寛文年間のことである。常に鉈一柄を携えて仏像を刻んで諸山に納め、
松前地方には円空の作った仏像が少なく、また東蝦夷地有珠、勇払等にもあると
伝えられる。北夷談に拠ると、寛政十一年虻田場所内礼文華のケホユの岩穴
四体の仏像があり一は『うすおくのいん小島江州伊吹山平等岩僧内始山登
円空寛文六丙午年七月二十八日』と刻まれ、他の仏像には『たろまえのたけ』
『うすのたけごんげん』『ゆうはりのたけごんげん』と刻まれている、よってその地山に
送って安置せしめたと云われる。
 
また夕張日記には『寛文年間、円空夕張岳に登らんとして、分け入りしに、終に
上がり得ず、カムイコタンに七昼夜、薬師の神呪を唱して籠もり、一躯の仏像を
刻みホロフンベの岩洞に納め帰りしに、其夜より大雨三日三夜降り続き、河水漲り
其仏像を押し流し、円空のシコツ(今の千歳)に至る間に、其像は早くシコツに
逆上りて有りしとぞ。よって円空其地に小堂を建て是を安置して帰りしとぞ』とある。
但し真偽の程は判然としない。また東遊記には『土人の語るを聞けば、学徳兼備
して仙人の如き人なり』と記している」と述べてある。この人名辞典は大正の初期に
北海道史の編集の際に、河野常吉先生がまとめられた「北海道史付録人名字彙」を
現代文に書き直したものであるから、河野先生が大正初期の円空の存在に着目
しておられたことが知られる。

 河野先生につづいては、新撰北海道史の編集にあずかられた高倉新一郎さんが、
やはり道内に於ける円空の事績を、文献上博捜せられて「円空鉈作の像」
(「蝦夷往来」第十二号・昭和八年十一月)を発表せられたが、当時、高倉さんは
まだ円空仏の所在を確認しておられなかったのである。しかし、この高倉さんの
報文は、当時既に洞爺湖の円空仏を撮影し、茂辺地曹渓寺の円空仏を発見して
おられた杉山寿栄氏の注目するところとなり、円空仏に関する親切な手紙を寄せ
られたので、高倉さんは道内の円空仏に就いて開眼せられ、昭和九年夏、
釧路の厳島神社の円空仏を拝観されたのを手始めとして、そちこちの円空仏を
見られ、それらのことを「北海道と円空」(「ぷやら新書」第五十巻・昭和四十八年二月」)に
まとめられた。以下主とし同書に拠って、旧蝦夷地に現存する円空仏の発見の
経路及び現状のついて概説する。


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