道内の円空仏の古い記録は菅江真澄の遊覧記であって、西蝦夷地太田山と、
東蝦夷地礼文華及び有珠善光寺の円空仏のことが詳しく書かれている。
即ち「えみしのさへぎ」(「蝦夷喧辞弁」・天明八年)には、太田山の鉄の鎖を
よじ登った岩窟の中の御堂に、本尊太田権現(立松東蒙は大日如来としている。
「東遊記」天明四年)をはじめとして沢山の円空仏があり、その上の岩洞にも
円空仏のあったことを記しているが、現在は一体も残っていない。
恐らく山火事にでもあったのであろう「蝦夷廼手布利」(寛政四年)には礼文華の
洞窟に、河野先生が引かれた「北夷談」の記事と同様の円空仏のあったことが
書かれているが「ゆうばりのたけのごんげん」が「いわうのたけのごんげん」と
なっているのと、ほかに背が半ば朽ちて文字の読みがたいものがもう一体あって、
五体だったとしている点がちがう。
「北夷談」は幕史松田伝十郎の書いたもので、真澄の「蝦夷廼手布利」におくれる
こと七年である。これらの円空仏は伝十郎の配慮で、それぞれ背銘の土地に
移されて安置されたらしい。「うすおくのいん」云々のものは洞爺湖中島の観音堂に、
「くすりのたけごんげん」は釧路の厳島神社に、「たるまえのたけごんげん」は
苫小牧の錦多布神社に現在し、背銘の読めなかったものは礼文華にあるらしい。
「いわうのたけごんげん」の所在はわからないが、「ゆうはりのたけごんげん」なら
千歳の千歳神社にあったことが、松浦武四郎の「夕張日記」に出ているスケッチで
わかる。但現在は見当らない。「蝦夷廼手布利」にはまた、有珠の善光寺の小堂内に
円空仏が二体あって、一体は石臼の上に立ち、傍らの小祠内に三体あって、背銘が
「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給ふ」「のぼりべつゆのごんげん」
「しりべつのたけごんげん」とあった旨書かれている。堂内にあった二体は現在せず、
小祠内の三体はこれも背銘の土地に移されたらしく、「のぼりべつゆのごんげん」が
登別温泉に在り、火炎で焼けて黒焦げになり殆んど形をとどめないが、尚まつられて
いる。他の二体の所在は現在不明である。即ち洞爺湖、釧路、苫小牧、礼文華、
登別に現在する五体は、真澄発見十体中のもので、礼文華及び有珠で作られた
ものと思われる。

 十勝国広尾町の禅林寺にあるもは、「願主松前蠣崎蔵人武田氏源広林敬白
寛文六丙午夏六月吉日」と背銘があるという。願主蠣崎広林は当時松前藩の家老で、
十勝場所はその封地の一部だったから、この仏像は松前で作らせて、場所へゆく船で
運ばせたものだろうと云われている。真澄同様大旅行家で、幕末に広く道内を歩いた
松浦武四郎は「東蝦夷日記」に恵山、山越内(山越)、勇払にも円空仏のあったことを
書いているが、私は山越の諏訪神社で「ゆうらつふみたらしのたけ」の背銘の一本を
拝観している。他の二ケ所には現存しないらしい。また武四郎の「志利辺津日記」に
出ているイソヤ観音を、高倉さんは磯谷(寿都町)の海神社で拝観して居られる。
「寛文六丙午年八月十一日いそやのたけ 初登内浦岳 円空」と背銘があるそうである。
有珠登山の帰途内浦岳(駒ケ岳)に登ってから、麓の村ででも彫ったのが、
後に現地に届けられたのだろう。私は砂原の内浦神社で「うちうらのたけ」と背銘のある
一体を拝観しているが、これも同時に作られたのではないかと思う。
 
十勝国広尾町の禅林寺
磯谷(寿都町)の海神社
砂原の内浦神社

 気になるのはこの「うちうらのたけ」の一体と、真澄が善光寺の傍の小祠内で見た
「内浦の嶽に必ず百年の後あらはれ給ふ」と背銘のある一体との関係である。
高倉さんは寛政三年最上徳内一行の残した「東蝦夷道中記」の中にも「有珠善光寺の
『傍に五尺四方の堂に観世音三体安置す木像にて後ろに銘あり のほりへつ しりへつたけ
 うちうらたけ一体 名悉雲六字宛居 楷書に 百年の後有衍 山上観世音菩薩と書たり』とあり、
真澄の記事と一致している」と書いておられる。引用文がよくわからないので、同一書と
思われる函館図書館の「東蝦夷地道中日記」からコピーして貰ったが、字間があけずに
つづけられていること、うちうらのたけきの次ぎの一体が三体で、楷書が楷書、百年の後
有衍が百年後有だけで衍がぬけている外は同文であった。写本のことだから誤字や脱字が
あるかも知れぬが「内浦の嶽に必ず」云々の文章がそのまま彫ってあったとはとれないように
思われるが如何であったろうか。



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